2017年5月10日水曜日

たかがお弁当、されどお弁当(2) - トップ・マネジメントの即断で長年の問題解決へ

二見理事長が着任以来、フランクに現場の職員の声に耳を傾け、必要な事があれば即断をするとの姿勢で定期的に行っている職場訪問。さる4月19日(水)に今年度の最初の訪問先としてアドミッション課に来られた際、同課に長く在籍する組合員より入試業務における教職員の昼食弁当の私費負担が入試の現場に理不尽な負担をもたらしている問題を訴えところ、法人のトップとして公費による負担をする旨を即断されました。

この問題、もう7年も前になりますが、2011年1月27日付けの組合ニュースにて「たかがお弁当、されどお弁当 - 入試業務従事者に対する真っ当なサポートを」と題し、昼食時間もままならない入試業務に重視する教職員に対する昼食弁当の手当が、公費負担から私費負担になったことにより、個々の従事者からお弁当代を預かって発注するという大変負担の多い業務が、入試を統括するアドミッション課の職員にのしかかっている問題として、お知らせしました。

特に大学入試センター試験や一般入試の2次試験などの場合、従事する教職員は朝早くから夕方遅くまでの全日の業務であり、緊急対応に備えるためにも非常に限られた時間で昼食を取らねばなりません。昼の時間に外に食べに出ることはもちろん、お弁当を買いに行くことも不可能であり、また朝も早くからの出勤により、事前にお弁当を準備持参するのも負担になります。

何にもまして安全な実施を優先する入試業務では、昼食に関しては配達弁当を一括発注するのが、常識的な対応となります。国公立大学よりもより効率的な運営をしていると見なされる私立大学などでは、当然のように公費で発注します。本学でも法人化後の2009年頃までは公費で負担していましたが、2010年度の入試より、現場の意向を踏みにじって私費負担とされたのです。

滑稽な例を紹介すると、ここ数年のセンター試験は本学を会場に、鎌倉女子大学と湘南医療大学の教職員の協力も得て実施していますが、本学のアドミッション課職員により一括発注された同じ昼食のお弁当を、鎌倉女子大学と湘南医療大学の教職員は当然のように公費負担で食しているのに対して、かたや本学の教職員は、アドミッション課の職員が従事者1人1人からお金を預かり私費負担で食しているのです。

本来であれば、組合の交渉により解決されるべき問題でありますが、かつての公務員による官官接待等のだらしない問題と、その反動で公務員の公費での飲食に対する過剰なまでの世間の反発が、これまでの当局者の頑な対応を招き、通常の組合交渉ではいかんとも出来ませんでした。今回、そうした背景も熟知した二見理事長の真っ当な判断により、現場に突き刺さった理不尽なトゲが抜けたこと事を、素直に喜びたいと思います。

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SD義務化とプロフェッショナルとしての大学事務職員?

固有常勤職員の給与体系変更問題に忙殺され組合ニュースもそれ以外のことを書く余裕が無く、昨年末の「公立大学をめぐる国家財政システム 終わりの始まり?(3)」以来の稿となります。前回の最後でも少し書きましたが、今回は前回の続きではなく、この4月から事務職員、事務局を巡る法制度面での変更があったことを受けて、少し思う所を書いてみたいと思います。

4月14日の組合ニュース【公開版】の学習会の案内でも書きましたが、この4月からSDが義務化されるとともに、昨年度末ギリギリの3月29日に大学分科会に対して①大学設置基準に「教職協働」を盛り込むこと、②事務局に関して「事務を処理するため」とあるものを「事務を推進するため」と変更するという2点についての諮問があり、即日、これを認める答申が出され直ちに設置基準改正、4月1日から施行ということになりました。3月29日の大学分科会は傍聴していないのでそこで具体的にどのようなやり取りがあったのかは判りませんが、それまでの大学分科会でも議論らしい議論は無かったと記憶していますので、SD義務化も含め、たいした議論も無いままに職員を巡る法令上の変更が複数なされ、施行されたことになります。

SD義務化については、高等教育局長通知にあるように、その対象は事務職員にとどまらず教員や執行部、技術職員も対象に含まれること、教職協働については、同一組織内の構成員の協働をなぜわざわざ法令で規定しなければならないのか(別の表現を使えば、そもそも法令で規定するようなことなのか)、事務局については、これまでの“ガバナンス改革”の流れや大学分科会等での議論からは、これで終わりではなく、むしろ今後の「機能」を基本とした全面的な関係法令の見直しの試みの第1歩となるのではないか等、色々と論点はあると思いますが、その辺は他でも取り上げられているので、今回は、それらとは別で、かつ個人的には重大と考えている問題について取りあげます。

今回の3つの法令改正は、事務職員、事務局を巡る独自の文脈から出てきたというよりは、“大学ガバナンス改革”の一環、具体的には「学長トップダウンの強化」、「教授会の諮問機関化」と一括して捉えるべきものと考えます。即ち、学長の権限を強化し、教授会に諮問機関以上の権限を持たせないようにしたところで、アメリカのような「プロフェッショナル経営者」(ここでの「プロフェッショナル経営者」という言葉は、日本のような教員としてのキャリアの最後、あるいは途中で一時的になるものではなく、早期に経営に専門的に従事することを選択し、そのために大学院、専門職団体等での教育・研修を受け、経営者としての階梯を昇りキャリアを重ねる人々、という意味で使っています)が基本的に存在せず、かつ、悪化する経営環境下で増大する社会的・政治的要求に応えなければならないという矛盾する状況の下では学長の意思決定と執行を支えるスタッフの存在が不可欠であり、具体的には「経営」に積極的に関与しようとする一部の教員(管理職)と「事務局」として組織化されている事務職員こそがその担い手となることになります。

このうち教員管理職については、学長同様に「プロフェッショナル経営者」ではなく教育研究者としての地位も保持しつつその時間の一部を「経営者」としての活動に割くことに(少なくとも当面は)なるでしょうから、それに比べ組織的、恒常的に「経営」に関与する事務局とその構成員である事務職員の役割・実質的な権限は必然的に向上することになります。言い換えると、横浜市大で既に現実化しているように、事務局によって行われるアジェンダ・セッティングと各種原案の作成、会議における“説明”や会議の事前事後の“調整”が組織としての実際の意思決定において主要な役割を果たすことになります(なんというか、「行政」と「議会」・「行政の長であるはずの政治家」の関係が連想されます)。また、執行については言うまでもありません。それを前提としての事務職員の能力向上であると理解すべきでしょう。

ただし、個人的には、この問題を巡る議論で一つ、重大な観点が忘れられたままとなっているのではないかという点を懸念します。

事務職員、事務局を巡る法令改正が議論らしい議論も無いままにあっさりなされた一方で、それらの直接的な出発点である「大学のガバナンス改革の推進について」(審議まとめ)(平成26年2月12日)において設置が求められたはずの「高度専門職」に関しては、議論の混乱を経て一旦「専門的職員」へと名称が変わり、(政府がその“大学改革”の文脈で必要と認めているIRer、URAの個別整備支援は別として)最終的には棚上げ・継続検討事項となりました(この辺りの経緯、背景、意味等については過去4回組合ニュースで、また、ネット上では内容を見ることはできませんが、2015年度大学職員フォーラム「今後の大学職員の役割と課題 -大学職員における『高度専門職』の議論をめぐって-」での基調報告や「大学職員ジャーナル」第19号などで私自身の見解を示しています)。

そのような結果に至った原因としては、①経営環境が悪化する状況下、教員に準じる専門職を制度化し大量に雇用することは現実には困難、②メンバーシップ型雇用の日本型ジェネラリストが優位を占める社会、組織の中で、専門職の養成や活用は容易なことではない等があるかと思われますが、それはともかくとして、「日本型ジェネラリストである事務職員」が事実上の大学経営の主たる担い手になることで、アメリカ型の専門職が担い手となる場合に比べ大きな違いが幾つか生まれることになります。

例えば、「職務遂行能力」というタームに代表される「メンバーシップ型人材」の能力・能力観が「専門職」のそれとは全く異なるという点については過去にも指摘しましたが、もう一つ、「専門職」の要件の一つとされる社会、公共の利益(公益)と結びついた「専門職」としての倫理(専門職倫理)の問題は非常に重大でありながら、ほとんど着目されていないと思います。

専門職(profession)とは何かという問題は、20世紀初めにアメリカの社会福祉職の専門性を巡る議論の中で提起され(「Is Social Work a Profession?」)、半世紀余りをかけて一般的な定義がほぼ定着しましたが、その重要な要件の一つが専門職倫理の存在であり、それはしばしば当該専門職の職能団体における倫理綱領として現実化されています。

例えば日本医師会は、「医の倫理綱領」、「医師の職業倫理指針」を定めていますし、日弁連には「弁護士職務基本規程」が存在しています。また、大学にも関係のあるところでは、日本図書館協会が「図書館員の倫理綱領」を策定、先日、「一掃しろ」と地方創生担当相が口走って謝罪に追い込まれた学芸員についても「博物館の原則 博物館関係者の行動規範」(日本博物館協会)が、その他心理士関係では「日本臨床心理士会倫理綱領」(日本臨床心理士会)、「臨床心理士倫理綱領」(日本臨床心理士資格認定協会)、「学校心理士倫理規定」(学校心理士認定運営機構)などが定められています。

アメリカの大学専門職団体を見ても、例えば学務系専門職の2大団体であるACPAとNASPAは、それぞれ「Statement of Ethical Principles & Standards」(ACPA)「Standards of Professional Practice」(NASPA)を定めていますし、共同で策定した「Professional Competency Areas for Student Affairs Educators」においても、真っ先に「Personal and Ethical Foundations」が必要な資質能力として挙げられています。IRerの団体である「Association for Institutional Research」も倫理綱領として「Code of Ethics and Professional Practice」を制定しています。また、大学内の専門職というよりは外部の独立した専門家でそのクライアントの一つが大学という事になりますが、評価の専門家がprofessionとして存在しており、その団体である「American Evaluation Association」によって策定された「AEA Guiding Principles for Evaluators」を見ると、5項目の規定のうち3番目の「Integrity/Honesty」が最も記述量が多く、さらに4番目の「Respect for People」、最後の「Responsibilities for General and Public Welfare」と併せると専門職としての指針の大半を倫理に関連した規定が占めていることになります。

このように国内の専門職の例を見ても、アメリカの大学の専門職を見ても、専門職としての倫理規定の存在という要件は実際に満たされ、かつ重視されていることが判ります。

それに対して、基本的に日本型ジェネラリストしての事務職員の組織であり、学会であると同時に国内における事務職員の地位・能力向上運動の担い手、職能団体としての性格も色濃く有する「大学行政管理学会」の場合、その設立宣言で「プロフェッショナルとしての大学行政管理職員の確立」を謳っているにもかかわらず、学会HPには職員としての倫理規定のようなものは見当たりません(professionと日本で言う“プロフェッショナル”の関係は“リベラル・アーツ”と“教養教育”のように微妙かつ大きなずれをはらんでいますが、ここではとりあえず、大学行政管理学会が自身を“プロフェッショナル”たらんと志向し、そう宣言しているということを前提として、それはprofessionと相当重なる部分があるものとして話を進めます)。その一方で、「大学行政管理学会」との比較という観点からは奇妙な印象を受けるかもしれませんが、日本の高等教育に関する理論的研究の中心的存在で会員の大半を研究者が占めているはずの「日本高等教育学会」が、自らが「実践家や大学管理運営者などを含めた、高等教育研究にかかわる幅広い関係者によって組織されている」として「専門的能力の追求」、「誠実性の追求」、「人権の尊重」、「高等教育への敬意と専門的責任」、「社会的責任」等からなる「日本高等教育学会倫理規程」を制定しています。

さらに先にも書いたように、「高度専門職」、「専門的職員」の制度化が棚上げになる中、政府がその“大学改革”の文脈で必要と認め、国立大、私立大における個別整備を支援、推進しているIRer、URAのうち、IRerについては、見たところ職能団体のようなものは見当たらないものの、探してみると同志社大が中心となって発足した「大学評価コンソーシアム」が「評価・IR 担当者に必要な知識・スキル」を策定しています。しかしながら、そこでは「Association for Institutional Research」や「American Evaluation Association」のような専門職としての倫理に関する内容は見当たらず、むしろ「依頼者の期待に応え」、「依頼者に分かりやすいストーリーを構成」といった依頼者寄りの記述が目につきます。

このように、(アメリカの同業者のようなprofessionではなく)メンバーシップに基づく日本型ジェネラリストとしての事務職員の集団でありながら、同時に「プロフェッショナルとしての大学行政管理職員の確立」を目指している「大学行政管理学会」を見ても、一応、アメリカ等と同じ特定分野の専門職(profession)であるはずのIRerの団体である「大学評価コンソーシアム」を見ても、プロフェッショナルあるいはprofessionとしての倫理についての意識は不思議なほどに希薄です。

そして、ここでようやく今回のタイトルに繋がるのですが、これらの数少ない関連団体においてさえそうであるならば、義務化され一斉に実施されることになるはずの各大学におけるSDにおいて「プロフェッショナルとしての倫理」が取り上げられる可能性は極めて小さいのではないでしょうか。アメリカの大学の専門職集団と日本型ジェネラリストの集団である事務局を比べた場合、少なくとも現段階の個別分野での「専門的能力」はあちらの専門職集団に軍配が上がるでしょうが、先にも書いたように、能力以外の「役割・実質的な権限」については、「理事会、学長、ファカルティ」の3権分立の下にあるアメリカの大学の専門職集団よりも学長トップダウンの実質的な担い手となりうる日本の事務局の方が強力なものとなる可能性は十分にあるにも拘らず、です。

メンバーシップ型人材の特性の一つとして「終身雇用」、「転職の困難性」と相互補完性を持つ「所属組織への強い忠誠心」を挙げることができますが、この忠誠心は所属組織を超えた公益と結びついた倫理の裏付けを欠いた場合、法令や倫理に反した所属組織の行為さえ肯定する「盲目的な忠誠心」へと転落する危険があります。実際、企業の不祥事を見ても、明確な公益通報者保護法違反であるにも関わらず自社の違法行為を告発した社員が退職に追い込まれたり組織的ハラスメントにさらされたりすることがままある(例えば「オリンパス事件」や「トナミ運輸事件」など)一方で、自分のやったこと、関わったことに口を噤んだ当事者が内部で道徳的に問題視されることはまずなく(むしろ賞賛される場合すら)、最近はどうか知りませんが、かつてはほとぼりが冷めたころに関連会社にそれなりのポストを用意するなどということすら行われていたと記憶しています。このような行為は、たとえ営利組織であっても本来許されないことであり、短期的には株主等のステークスホルダーにも組織自体にも損害を与え、長期的には市場とそこで行われる競争への信頼を傷つけ、最終的には組織自体を崩壊させかねないにも関わらず、です。まして大学は本質的に非営利組織であり、教育研究を通じて社会の公益に奉仕することをミッションとする存在です。

要約すると、professionの重要な要件としての倫理性(所属組織への盲従は倫理とは呼べません)を軽視したまま、海の向こうの同業のprofessionよりも大きな役割・権限だけは手に入れるなどということにはならないで欲しい、そういう人材の養成につながるようなSDにしてはならないという話でした。

(菊池 芳明)

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